古澤 満コラム私は子供のころからラマルクの“獲得形質の遺伝”に興味を持ち、進化を目の前で見ることが夢であった 古澤 満 古澤 満
 

今年のノーベル医学生理学賞は旧友のサー・ジョーン・ガードン博士と山中伸弥博士に決まりました。今から丁度50年前、29歳のジョーン(当時はサーの称号はもっておられませんでした)が米国のキングとブリッグス両博士のもとでカエルの卵に体細胞の核を移植する技術を学んだ帰り道に、大阪市立大学の発生研究室に立ち寄られたのが最初の出会いです。核移植技術に関するセミナーをしていただいたのですが、黒板に描いた実験装置の絵があまりも下手だったので、かえって好感がもてるほどでした。普通、生物学者は絵が上手なものなのですが。当時30歳の私は研究室の助手をしていました。年の違わない二人はすぐに懇意になり、羽衣の拙宅に2、3日泊まって語り合ったのが懐かしく思い出されます。

アフリカツメガエルのオタマジャクシの腸の細胞の核を受精卵に移植してオタマジャクシを作った有名な実験が報告されたのはそれから2年後でした。当時の日本では、この実験結果の解釈は「発生過程ではゲノムは変わらないことが証明された」というものでした。私は、「受精卵の細胞質がゲノムをリセットする能力があることを証明したのであって、発生の間にゲノムが変わったかどうかは依然として不明である」と思っていました。ちなみに、その時点で、ジョーンはノーベル賞をとると予測したのですが、大かたの賛成は得られませんでした。
それ以来サー・ジョーンとの付き合いは続いています。訪問のたびに、研究室の自室に持ち込んだ解剖顕微鏡を使って実験をしている姿がありました。ケンブリッジの自宅に泊めて頂だき、ご子息、ご息女と一緒にジーン夫人の温かい手料理をご馳走になったこともあります。ご自宅に招かれた時は、いつも高名な科学者を私たちのために呼んでいただきました。第一製薬の佐藤嘉生氏とご自宅の庭にあるテニスコートで試合をしたことがありました。われわれが勝ちましたが、その晩にホテルに電話があり、帰国を延期して明日もう一度やろうとリベンジを申し込まれました。翌日、隣の奥さんと称するめっぽう強力な助っ人が現れ、残念ながらわれわれは負けました。彼のテニスは正統派で品があり、サーブはとても速いです。

 今回のノーベル賞受賞に関連し沢山報道されていましたが、サー・ジョーンの中学生時代の成績は悲惨です。「彼にとっても、教える側にとっても、この一年は全く無駄な努力であった」というのが担任の評価です。さらに、「人の言うことを聞かずに、勝手に実験をやってしまう」という但し書きが付いています。この、やんちゃで悪戯好きの性格を物語るエピソードをご紹介しましょう。研究室の学生と一緒に奈良公園へ行った時のことです。近鉄の自動改札用の切符を、こともあろうに鹿に食べさせたのです。しかも、鹿はおいしそうにそれを喰っていました。その帰り道、今度は近鉄の切符を大阪の地下鉄の自動改札機に投入したのです。前もって私に断っていましたが、これいかに、成功したのです!その時の彼の"ドヤ顔"と言ったらありませんでした。この何事も試してみるという性格がノーベル賞につながったと確信しています。

 私が総括責任者であったERATOの『古澤発生遺伝子プロジェクト』のアドバイザーをお願していましたので、幾度か来日されていました。そのたびに2個ずつカットされたワイングラスをお土産に頂き、合計6個がそろったのですが、割れてしまって今では3個しか残っていません。このときの謝礼金で買ったかどうかは知りませんが、赤いフェラリーに乗っていました。夕食をいただいたのちに、駅まで私を送ると言い出しました。酒が入っているので少々危険だとは思いましたが外はひどい嵐でしたのでお願いしました。ところがなかなか出発しないのです。飛行機に乗り遅れると大変ですのでいらいらしていますと、やおら出かけるかというわけで、豪雨のなかを突っ走りはじめました。やがて走っている電車が見えましたが、なんとそれが乗るべき電車で、次の駅まで競争になりやっと間に合いました。とにかく悪戯ずきです。ジーン夫人も相当なものです。1987年にサー・ジョーンが国際生物学賞を授与され、その祝賀パーティーでのことです。少し遅れて部屋に入ってきたジーン夫人、私を見つけるや否や「おーい!ミツル!」と、片手を挙げ大声で呼びかけたのです。皇室の方々もおられた席でしたから、一同唖然としました。そこで私は少しも騒がず、「ハイ!ジーン!」と返えました。私が家人を呼ぶときの悪い言葉を覚えていて、意味を十分知っていて使ったのです。似たもの夫婦といったところでしょう。

 不均衡進化論の最初の論文を出すときには大変お世話になりました。東京都内から羽田空港に向かうタクシーの中で、共同究者の土居洋文氏と二人で説得し、誰か有力な研究者に論文を見てくれるよう頼みました。やがて匿名の研究者から非常に丁寧で有効な示唆があり、そのおかげで1年後の1992年に、やっとのことでJ. theor. Biol.に第1報を出すことができました。いつのことでしたか、最相葉月氏(ノンフィクションライター)とケンブリッジのご自宅を訪問した際には、J. ケアーンズの「不死化DNA鎖モデル」と不均衡進化論の関連を指摘され、昨年、Open J. Genetics(2011)に論文を書くきっかけとなりました。

 今回はエピソードを中心に、サー・ジョーンのノーベル賞受賞を記念してコラムを書きました。ご夫妻とも、今後とも十分に身体に気をつけられ、ますますご活躍されることを祈っています。また、テニスをご一緒できることを楽しみにしています。今回の受賞に関して、家人たちも心から喜んでおります。本当におめでとうございました。

2012年11月 26日
古澤 満
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第1回  『進化と時間を考える』
第2回  『進化と時間を考える ― 続き ―』
第3回  『遺伝とDNA』
第4回  『エル・エスコリアル サマーコース』
第5回  『生物を支配する法則を探る ― 元本保証の多様性拡大 ―』
第6回  『生物を支配する法則を探る ― 保守と革新のカップリング ―』
第7回  『進化を目の前に見る事は可能か? ― @プロローグ ―』
第8回  『進化を目の前に見る事は可能か? ― A偶然の出会いときっかけ ―』
第9回  『目の位置』
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第11回 『外国を知る』
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第13回 『私とスポーツ ースキー・ヨット・テニス―』
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第18回 『分子生物学の新しいパラダイム』
第19回 『往年の名テニスプレーヤー清水善造氏との出会い』
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第24回 『競技場内研究者』
第25回 『文系と理系』
第26回 『人生ままならぬ』
第27回 『STAP細胞仮説は科学の仮説ではない』
第28回 『人は一生で2回以上死ぬ!?』
第29回 『多様性と進化のパラドックス』
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