古澤 満コラム私は子供のころからラマルクの“獲得形質の遺伝”に興味を持ち、進化を目の前で見ることが夢であった 古澤 満 古澤 満
 

クラー博士(Dr. Amar Klar)は、J. ワトソン博士の招きで、コールドスプリングハーバー研究所でポストドクとして過ごした時期があります。当初の優れた仕事に、出芽酵母の接合型転換に関する所謂“カセットモデル”の分子遺伝学的証明があります。その結果をヒントに、高等動物の大まかな枠組みを決定する基本機構としてSSISモデル(Somatic strand-specific epigenetic imprinting and segregation model, A. Klar, 1994) を提唱したことで知られています。即ち、発生のごく初期段階に1個の前駆細胞を仮定し、それが分裂する際に、細胞内で姉妹染色体の間でDNA鎖(ワトソン鎖/クリック鎖)の識別機構が働き、両娘細胞がエピジェネティックに違った細胞に決定・分化すると考えます。例えば、体の左右性はこのようにして決定されます。この前駆細胞を仮定することで、既に知られていたマウスの内臓逆位突然変異体(内臓逆位、致死=左左;右右の組み合わせ、正常個体)の出現頻度が見事に説明できるのです。そして、前駆細胞で働く体の左右を決定する因子として、左・右ダイニンに絞り込むことに成功しています。更に発展して、頭のつむじ(旋毛)の左右の巻き方の原因遺伝子や、精神疾患の原因推定にも及んでいます。SSISモデルの裏には彼の哲学が流れています。即ち、毎世代正確に繰り返す発生過程は、遺伝子の“on” “off”のような確率論的な機構だけではなく、DNAの2本鎖を識別するような決定論的機構によってより確実に担保されているに違いない、というコンセプトです。博士の天才たる所以です。クラー博士の仕事を意識してかどうかは分かりませんが、最近、J. ワトソン博士が20分講演の最後の5分間で、DNAの2本鎖認識が生命活動に重要であると指摘しています。興味のある方は以下のヴィデオをご覧ください( https://www.ted.com/talks/james_watson_on_how_he_discovered_dna?language=en)。

2週間前、突然クラー博士の死を知りました。まだ現役の69歳でした。今もインターネット上に博士の死を惜しむ声が止みません。アマールと最初に会ったのは2005年の3月中頃でした。当時ボルチモアのNIH(National Institutes of Health) に居られた洪実博士(現、慶応大・医学部教授)の紹介でNCI(National Cancer Institute、フレデリック) の彼の研究室を訪問し、不均衡進化論のセミナーを提供した時でした。同行した方々には、洪博士、留学中の川野光興博士とノンフィクションライターの最相葉月氏がおられました。セミナー後、アマールと私は意気投合し、夜遅くまで街でビールを飲みました。その時、2つの話題が出ました。1)2本のDNA鎖の物理化学的性質の差異をキーワードに、不死化DNA鎖モデル(J. Cairns, 1975)、SSISモデル、及び不均衡変異モデルを統一的に理解する内容の総説を書くこと。2)ケアンズ博士、クラー博士、古澤とワトソン博士を加えてミニシンポジュームを日本で開くこと。総説の方は、アマールの力を得て、私の名前でまもなく出版の運びとなりましたが(Furusawa, 2011, doi:10.4236/ojgen.2011.13014)、ミニシンポの方は実現不可能となってしまいました。

ところで、アマールの説は非常に難解なことでも有名です。私は上記総説を書いた時の彼とのやり取りもあって、なんとか理解することができました。アマールから、「他人が考えた難しい理屈をよく理解できたものだ」と褒めてもらったことがあります。きっと彼自身も、難解な説であることを自覚していたのでしょう。一方、アマールは、私のセミナーを聴いて不均衡進化論の概念を即座に理解したようです。それは私のセミナー後の司会振りを見て分かりました。最初に聴衆に向かって、「この説を聴いたことがある人は挙手してください」。誰もいないことを確かめると、「皆さんの中で、古澤説をサポートする考えや、関連する事実を知っている方は前へ出て黒板で説明してください」。数名の研究者がそれに答えてくれました。私の英語能力を察した上での配慮であり、何よりも、私が何を知りたいために遠くからわざわざやって来たかを、よく理解していることが分かりました。本当に聡明な方だなと感心しました。

ごく最近、御嬢さんの結婚が決まったので、奥様がインドへ贈り物を買いに帰国しているので、一人で家でワインを飲んでいる最中だと、酔っぱらって書いたメールが入ったばかりでした(冒頭のピンクのターバンの写真は、おそらく結婚式の時のものだと思います)。お互いの研究を尊敬し理解できる数少ない間柄だったのに、本当に残念です。今となってはご冥福を祈るばかりです。天才によく見られるような、気難しさやエキセントリックなころはなく、極めて朗らかで良く気が付く人物でした。近いうちに、きっとSSISモデルは証明されるでしょう。12年間という限られた期間でしたが、とてもいい議論ができたことを感謝しています。

2017年5月23日
古澤 満
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