古澤 満コラム私は子供のころからラマルクの“獲得形質の遺伝”に興味を持ち、進化を目の前で見ることが夢であった 古澤 満 古澤 満
 

 父、古澤一夫は1899年に、奈良県吉野山の竹林院管主古澤龍敬の長女ヒサヱと、吉野神宮の宮司舟知清三郎の長男としてこの世に生を受けました。因みに、竹林院は秀吉が吉野山の桜を愛でながらお茶会を開いた場所として知られています。

父の話では、中学生の頃には家にこもり、飛行機のデザインを夢中に考えていたようで、今流行している三角翼の戦闘機をすでに発想していたと聞いています。長じて、大阪大学医学部の予科に入学したのですが、どうも医学は性に合わず、小倉金之助先生の数学サロンに入り浸っていたと聞いています。小倉先生には結婚の仲人の労をお取りいただいています。やがて本当に医学が嫌になり、阪大を中退してロンドン大学のA.V. ヒル教授(O.マイヤホフとともに筋肉の収縮機構で1922年ノーベル賞受賞)の研究室に7年間留学しました。英国時代の一番いい仕事(おそらく彼の生涯で最高の仕事)は, 夏季休暇中で訪問中のプリマス臨界実験所で行った神経伝達機構「脱分極(depolarization)」の発見だと思います。驚くことに、2報の論文はいずれも父の単独名で発表されています。論文1,論文2をご参照下さい)。

この事実は、当時の英国科学界の見識とプライドの高さが読み取れます。父は博士号を拒否して、論文の原稿を書き終えてすぐに帰国してしまいます。多分、博士号を取るために渡英したのではないことを暗に主張したかったのでしょう(この事情は添付しました主論文の末尾に付されたA.V.ヒルのコメントからも伺えます)。帰国後にも成果をあまり宣伝しなかったようで、今日に至っても‘脱分極’の発見者・命名者が日本人であることすら知らない方が多いようです。息子の私ですら原著を見たのは数年前です。帰国後は大阪大学医学部、労働科学研究所、京都大学医学部、ジャカルタ医科大学統治メンバー(軍属)を経て、神戸大学医学部の産業医学教室を立ち上げ教授を務めました。1975年に76歳で病のため他界しました。

家庭内の父は厳格で、理由も聞かずにいきなりビンタを食らうこともしばしばありました。しかし、母親が良きかばい役を演じ、私たち4人の男の子は自由に育ちました。今から考えますと、それとはなしに科学的教育を意図していたようです。英国から持ち帰ったライツ社製の顕微鏡、ロミントン社製の小型タイプライター、教材用の蒸気エンジンを時々操作して楽しませてくれました。これらの器具は遊び道具として自由に触らせてくれました。子供用の理科実験の絵本や佐々木邦著『トム君・サム君』少年倶楽部文庫(?)がそれとなく置いてあり、科学と外国に親しむように仕向けていたようです。

父の家庭教育はある意味で徹底していました。ずるをして学校を休んでも決して叱りませんでしたが、友達が休むから僕も休むと言ったとたんビンタが飛んできました。つまり、自分のリスクでやるなら何をしてもいいが責任を取りなさい、と言う英国式教育です。試験勉強で徹夜をしていると、そんなトックリ勉強(知識をむりやり入れてすぐに出す)をしてなにになる、早く寝なさい。とよく注意されました。そんな父も、私が中学生になってからは叱るのをぴたりと止めました。大人扱いをしたのです。例えば、家では煙草と酒は飲んでもいいことになりました。どうぞ吸いなさい、飲みなさい、と言われると変なもので、美味しくない煙草は吸わなくなりました。一方、苦い味のビールに関する父の目論みは完全に失敗でした。味を占めた私はそれ以来ビールを飲み続けることになります。おかげで兄弟のうち、上3人(私は次男)は見事に大学受験に失敗しました。

私にとって父は実質上の教授でした。具体的な研究についてはあまり話しませんでしたが、科学することの意味を教えられたような気がします。そのなかで今でも覚えている言葉があります。1)専門以外の本を読め。2)よい研究者になろうとするなら結婚しない方がいい。3)学会でえらくなろうとするな。の三つです。1)は完全に実行しましたが、効果があったと思います。2)は父自身が結婚しているので皆目説得力がなく、私は結婚してしまいました。父も家庭をもつことの煩わしさを実感していたのでしょう。3)も完全に実行に移しました。45歳を過ぎてからはほとんど学会には行かず、必要なときには直接研究者を訪問することにしました。お陰様で学会運営等の煩雑さから逃れ、研究とスポーツに全力投球することができました。勿論、学会に尽力されている諸先生方には大変申し訳なく思っていますし、心から感謝しております。

父は英語が堪能でしたので、よく論文の英語の校閲を頼んでいました。その機会に六甲北山麓にあった実家に帰り学問の話をするのが楽しみでした。私が少しいい論文を書くと喜んでいる様子でしたが、あとで母から、−息子の私に嫉妬心を感じる−、と言ったのを聞き、科学者としての父の凄さに背筋に走るものを感じました。 酒を酌み交わしながら、父の得意とする宇宙論や進化論を闘わせることができたらどんなに楽しいだろうなと思っています。とりわけ、不均衡進化理論に対する意見や批判を是非とも聞きたかったのですが。

2015年6月22日
古澤 満
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第1回  『進化と時間を考える』
第2回  『進化と時間を考える ― 続き ―』
第3回  『遺伝とDNA』
第4回  『エル・エスコリアル サマーコース』
第5回  『生物を支配する法則を探る ― 元本保証の多様性拡大 ―』
第6回  『生物を支配する法則を探る ― 保守と革新のカップリング ―』
第7回  『進化を目の前に見る事は可能か? ― @プロローグ ―』
第8回  『進化を目の前に見る事は可能か? ― A偶然の出会いときっかけ ―』
第9回  『目の位置』
第10回 『S氏の事』
第11回 『外国を知る』
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第13回 『私とスポーツ ースキー・ヨット・テニス―』
第14回 『大学での研究を振り返って』
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第25回 『文系と理系』
第26回 『人生ままならぬ』
第27回 『STAP細胞仮説は科学の仮説ではない』
第28回 『人は一生で2回以上死ぬ!?』
第29回 『多様性と進化のパラドックス』
第30回 『科学者としての父を語る』
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